節子、それ三島やない太宰や

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僕の友人に小説とか詩とかを自作する女の子がいて、たまに僕もその子がしたためた詩を読ませてもらう機会がある。

その子が自分の作品が教授から三島由紀夫みたいだと言われて舞い上がっていることをTwitterで呟いていた。全く納得できない。

僕はその子が提出した作品を読んだことがあるが、それは感情の過剰というか、情緒的な女の子が二人の大切な男の子と寝てしまってそのことに深く悩むというものである。

三島由紀夫の小説は自意識過剰で、ブラマヨの漫才の如く「考えすぎやろ!」と読者からつっこまれることも多い。だが、私はこの三島観なるものに与しない。三島の作品の特徴はその恐るべきほどまでの論理の徹底性にあると思われるからだ。三島は日本の嫌な部分を問われた時に「センチメンタリズム」を挙げた。自分の小説は論理の徹底を心掛けているとも述べる。

しかし、多くの読者は三島の作品からは溢れる情緒なるものを感じる。それは何故ならば、人々に論理的合理的に振る舞わせるもの、それを支えるものが不合理的な感情であるからだ。

日本が世界に誇る社会科学者である小室直樹は太平洋戦争における日本の敗戦にひどく傷つき、「次にアメリカと戦争する時には必ず勝つ!」と意気込み、そのためにアメリカ人よりも民主主義を、アメリカ人よりもキリスト教の理解をと生涯に渡り、尋常ではなく学問に励んだ人物である。究極的に合理的に振る舞う人は究極的に不合理に見える。このことを踏まえれば、一見同型のように見える論理的に振る舞おうとして感情が露見する作品と、論理も特になくただひたすら感情的な作品はどちらが良い悪いかはさておき、実は全く正反対の作品であることが分かるであろう。

そのことに大学教員が全く気づいていないことに私は深いショックを受ける。