節子、それ三島やない太宰や
僕の友人に小説とか詩とかを自作する女の子がいて、たまに僕もその子がしたためた詩を読ませてもらう機会がある。
その子が自分の作品が教授から三島由紀夫みたいだと言われて舞い上がっていることをTwitterで呟いていた。全く納得できない。
僕はその子が提出した作品を読んだことがあるが、それは感情の過剰というか、情緒的な女の子が二人の大切な男の子と寝てしまってそのことに深く悩むというものである。
三島由紀夫の小説は自意識過剰で、ブラマヨの漫才の如く「考えすぎやろ!」と読者からつっこまれることも多い。だが、私はこの三島観なるものに与しない。三島の作品の特徴はその恐るべきほどまでの論理の徹底性にあると思われるからだ。三島は日本の嫌な部分を問われた時に「センチメンタリズム」を挙げた。自分の小説は論理の徹底を心掛けているとも述べる。
しかし、多くの読者は三島の作品からは溢れる情緒なるものを感じる。それは何故ならば、人々に論理的合理的に振る舞わせるもの、それを支えるものが不合理的な感情であるからだ。
日本が世界に誇る社会科学者である小室直樹は太平洋戦争における日本の敗戦にひどく傷つき、「次にアメリカと戦争する時には必ず勝つ!」と意気込み、そのためにアメリカ人よりも民主主義を、アメリカ人よりもキリスト教の理解をと生涯に渡り、尋常ではなく学問に励んだ人物である。究極的に合理的に振る舞う人は究極的に不合理に見える。このことを踏まえれば、一見同型のように見える論理的に振る舞おうとして感情が露見する作品と、論理も特になくただひたすら感情的な作品はどちらが良い悪いかはさておき、実は全く正反対の作品であることが分かるであろう。
そのことに大学教員が全く気づいていないことに私は深いショックを受ける。
団塊ジュニア宣言
団塊ジュニアは私にとって特別な世代である。それは両親の生まれた世代でもあるし、私が普段の派遣労働で関わる人々にこの世代が多いことが理由と思われる。
私は団塊ジュニアという世代を落ち着いて考えることに困難を覚える。私の両親はその世代の中では「勝ち組」に分けられる人たちである。一方仕事で関わる人々は世間一般で「負け組」と呼ばれる人たちである。その人たちが就職活動でどれほど苦労したか、そして家族や周りの人たちから「自己責任」の一言で冷笑されてきたかの実例を多く聞いた。この世代は日本が若者を切り捨て始めた世代である。(60年代には地方の中卒の若者を「金の卵」なんて呼んで、工場労働に従事させたりなどはあったが)大学を出たら就職先がなく、派遣労働に従事させられ、現在は「彼らに金を渡した所で彼らはもう子供を作らないのだから支援する必要はない」とまで言われ、そこまで遠くない未来には「団塊ジュニア」が年老いた時にどのように介護をするのかと不安がられている。彼らの人生を考える時に平静でいられるだろうか。そして何か彼らにできることを思いつけるだろうか。同情するしかできない。そんな姿を彼らに見せたら「同情するなら、金をくれ」と言われそうだ。
マルクス エンゲルス「共産党宣言」の共産主義者やプロレタリアの部分を団塊ジュニアに変えて贈る。
「団塊ジュニアは、自分の見解や意図を秘密にすることを軽べつする。団塊ジュニアは、これまでのいっさいの社会秩序を強力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、団塊ジュニア革命のまえにおののくがいい。団塊ジュニアは、革命においてくさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するのは世界である。
日本の団塊ジュニア団結せよ!」
退屈を愛する
以前バイトで全く仕事というかやるべき作業みたいなものがなく、かといって本やスマホを見てもいい訳でもなく、ましてや、家に帰してくれる訳もないという日があった。その時は何もせずに時間を過ごすというのはこれほどまでの苦痛なのかと感じ、それならば忙しなく働かされた方がマシだと考えていた。
しかし、昨日は念願叶って、ほとんど休む暇もなく、就業時間ずっと「あれやれ、これやれ」と働かされた。それで気づいたのだけれど、別に忙しく働かされたからと言って特に時間の流れが早く感じるわけではないのだ。私は馬鹿だからそんなことにも気づかずにいた。
家に帰ると身体はボロボロ、職場で叱責されたために「あいつ、ぶっ飛ばしてやりたい!」と心はイライラとなっていた。
私は忙しなさよりも、退屈を愛する。
ガイコツの皮肉
大して面白くなかった。この本は東京裁判開廷の日に出版されたもので、「アメリカ様」が日本を叩き潰してくださったために、日本には言論の自由や民主主義などを国民は獲得することができました。もし、日本が勝って軍部が大威張りでもしていたなら、やりきれませんよ。アメリカ様が神風なる迷信妄語を打ち破ってくださり感謝。という内容が皮肉混じりに書かれている。
初めの方は、結構楽しく読んでいたが読み進めるにつれ、なんだかどうでもよくなって途中で投げたしてしまった。皮肉のレベルも特に高いわけでもないし、こんなのよりもっと他に読むべき本があるんじゃないかとという気になった。この本を読んでも教養が得られるわけでもないし、笑えるわけでもない。
なんだか、どうでもいい本を買っちゃったなと後悔。
クスリスゴイ
体調を崩して、思うように生活できない日々が続いた。一週間何もできないレベルの風邪を引くことは、ここ何年もなかったため、辛い一週間を過ごした。
その生活を過ごして、強く印象づけられたのは「クスリってこんなにも効くんだなあ」ということだった。
持病もないために、薬を飲まない日常を過ごす僕には、解熱剤のあの効き目たるや、魔法の如しと感じられた。
以前の僕は薬ではなく自力で治すことを良しとしていたが、それが如何に馬鹿なのかということもとてもよく分かった。
僕の薬への抵抗感はどこから来たのかについて少し考えてみた。多分、母親からであろう。母親は「薬を飲み過ぎると、体の中で耐性ができちゃって中々効きづらい体になる」ということをよく言っていた。その言葉を聞いて育った僕は人生の中で薬が使える回数が限られているんだ。だから、あまり薬を使わずに生活しよう。薬は将来のために取っておこう。みたいなのが無意識に内面化されたのかもしれない。
馬鹿は薬を使わない。