自由律俳句のこと

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僕は自由律俳句が好きだ。好きになったのは間違いなく伊集院光のラジオの影響。朝と深夜のラジオでは自由律俳句のコーナーがあったし、度々伊集院光が好きな自由律俳句の話をしたり、そもそも自由律俳句ではないコーナーも短い文章から自分の想像力妄想力でイメージを紡ぐといった感じであるから、伊集院光のラジオそのものが自由律俳句的といえる。

そのラジオを長年聴き続けている僕たちは相当に“自由律”筋が鍛えられていることだろう。

そんな僕が好きな自由律俳句(今回は尾崎放哉のもの)を紹介する。

まず一首目は

なぎさふりかへる我が足跡も無く

である。

僕らは多くの足あとを残して毎日を懸命に生きている。ふと思い立って、僕らが残した足あと、僕らが生きていたという記憶や記録を確認しようとする。しかし、友達と鬼ごっこをしていてあまりにも鬼になりたくなさすぎて、かなり高い滑り台から飛び降りたその時の滑り台とか(滑り台に逃げていたんだ)、駄菓子屋なのに段ボールを貫くような銃が買えると噂の隣学区の「武器屋」と呼ばれていた駄菓子屋とかそういうものは失われているのだね。

ここまでの想像だと、この句は寂しい句なのかと思われるかもしれない。確かにこの句は寂しい要素を持っている。だけど、僕はこの句を失われた過去を懐かしむような、ノスタルジーに浸るような句だとは思わない。この句は現在を大切にしようという句である。足あとや僕らが過ごした時間なんてのはすぐに消える。だからこそ、人生で一緒に足あとをつける人というのは本当に貴重な、掛け替えのない存在なのだ。そんな句であると僕は解釈する。

もう一首紹介する。

昼の蚊たたいて古新聞よんで

これは本当に凄い句だと思った。過去から現在に至るまで、沢山の日常のワンシーンを切り取る作品が生まれてきたが、「ここを切り取るのか」と初めて読んだ時に大きな衝撃を受けたのを覚えている。僕はこれに類する経験がよくあった。実家に住んでいて、ゴキブリが出た時のことだ。普段僕に話しかけられるのを厭う妹達が僕の部屋に来て「〇〇くん」と呼ぶ。いつもならば「お前」と呼ばれているから、今日は少しおかしいなと感じる。で、話を聞くとキッチンのゴミ箱の裏にゴキブリが逃げたから退治してほしいと。僕に拒否権はなく、古新聞を持たされて戦場へと送られる。それで、激闘の末、後片付けをしている時に古新聞の記事が目に留まる。

「そういや、こんなことあったなあ」と。

僕はこの句からこの出来事を思い出した。「千と千尋の神隠し」の名言「一度あったことは忘れないものさ…思い出せないだけで。」が頭を掠める。僕はこの句を読むまで、何度もこのような経験をしているのに思い出すことはなかった。僕の記憶を青森山田のサッカー部とするならば、意識があるものなんてレギュラーである11人程度で、無意識には100人を超える控え選手がいることだろう。その中には、一生試合に出ないものも当然いる。記憶には選手交代回数の制限はないのだから、いくらでも思い出すべきだ。僕が自由律俳句が好きなのは“思い出す”からなのかもしれない。

https://number.bunshun.jp/articles/-/841706?page=1

https://eigahitottobi.com/article/77298/

https://www.aozora.gr.jp/cards/000195/files/974_318.html